中宮寺跡・上宮遺跡公園法起寺を後にして、中宮寺跡を目指しました。今は夢殿の裏手にある中宮寺ですが、当時はもっと離れた所にあったそうです。 実際にどのくらい離れていたか歩いてみることにしました。 方向としては南へ下ります。 JR法隆寺駅の方向へ向かって1.5キロくらいです。 今の中宮寺からは550メートル西ということになります。 見えてきました、中宮寺跡。 今は原っぱのようになっています。 ここは、室町時代に現在地へ移転するまでの「中宮寺」があった所で、聖徳太子が母の穴穂部間人皇后の宮室を寺院にしました。 聖徳太子創建七ヶ寺の1つ「中宮尼寺(ちゅうぐうにじ)」に比定されて、飛鳥時代創建の法隆寺若草伽藍とほぼ同時期に建立され、斑鳩地域において最古の寺院で、上宮王家(じょうぐうおうけ)と結びつきが深いのだそうです。 あ~、ここが当時の中宮寺のあったところかと思うとただの原っぱではありますが、なぜか感慨深いものがありました。 このあと、上宮遺跡の方へ向かって歩いて行くことにしました。 着きました、上宮遺跡公園です。 ここは、聖徳太子が最愛の妃・膳大郎女とともに晩年を過ごした飽波葦垣宮なのです。 今では綺麗な公園になっています。 ここに建物があったのでしょうか、遺跡を掘った跡があります。 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘文は、622年(推古30)正月22日に聖徳太子とと膳大郎女が病気にかかり、一ヶ月後の2月21日まず膳大郎女が亡くなり、翌日の22日に聖徳太子も亡くなった、と記しています。 二人の亡骸は2ヶ月前に亡くなった聖徳太子の母・穴穂部間人王后とともに、磯長(しなが)陵に葬に葬られた。磯長陵は聖徳太子廟として、大阪府南河内郡太子町の叡福寺の境内に祀られています。 最愛の妃・膳大郎女とともに過ごした晩年、聖徳太子はが最も幸せだった時だったのかも知れませんね。 さて、このあといかるがほーるで藤ノ木古墳から出土された品々のレプリカをみました。 そして、次の目的地廣瀬神社まで歩きました。 ジャンル別一覧
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